京都の世界遺産

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上賀茂神社  http://www.kamigamojinja.jp/
 神代の昔、本殿の背後北北西に位置する神山(こうやま)にご降臨になり、第40代天武天皇の御代、白鳳6年(678年)には山背国により、賀茂神宮が造営され、現在までほとんど変容することのないご社殿の基が築かれました。
 第50代桓武天皇による平安遷都以降は、皇城鎮護の神、山城国一之宮として歴代天皇が行幸・奉幣祈願され、明治時代以降第二次世界大戦敗戦まで、伊勢神宮に次いで全国の神社のなかでも官幣大社の筆頭となりました。
 
下鴨神社 http://www.shimogamo-jinja.or.jp/
 下鴨神社がまつられたのは、崇神天皇の七年(BC九十)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたと思われます。奈良時代より前から下鴨神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。 
 平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことが知られます。
 そして『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。
 
東寺 http://www.toji.or.jp/
 東寺は、唯一残る平安京の遺構です。創建からおよそ、1,200年。
 東寺は平安遷都とともに建立された官寺であり、国立の寺院です。その寺院を嵯峨天皇が、新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に下賜しました。
 造営にあたって、空海は御影堂の場所に住坊を構えました。
 東寺に来られたら、まず御影堂にお参りください。お堂に上がり、ひと時弘法大師空海とお話下さい。
 
清水寺 http://www.kiyomizudera.or.jp/
 「清水寺」という寺名は、音羽山中より今もなお途切れることなくこんこんと湧き、音羽の滝に流れる霊泉に由来しています。この霊泉は「すべての人を救う」観音さまのご利益とあわせ、古来より無病息災、立身出世、財福、良縁、子授けといった現世利益を願う善男善女を集め、「清水の観音さん」の名で全国に広く信仰を得てまいりました。
 開創は宝亀9年(778)、奈良時代の末で、山号は音羽山。宗派は北法相宗です。「北」は南都・奈良に対して北の京都に立地するという意味をもっています。
 
延暦寺 http://www.hieizan.or.jp/ 
 最澄の開創以来、平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は台密と呼ばれ覇を競った。
 現代に続く各宗派の開祖を輩出し、「日本仏教の母なる山」と呼ばれる。
 天皇より年号を寺号として賜った最初の寺院。
 
醍醐寺 https://www.daigoji.or.jp/ 
 醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
 醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、今日の姿となった。
 
仁和寺  http://www.ninnaji.or.jp/
 皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住したことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。
 御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもある。
 
平等院 http://www.byodoin.or.jp/ja/index.html 
 平等院鳳凰(ほうおう)堂は天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂である。「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、平安時代の記録では「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれている。堂内須弥壇の格狭間に嵌め込まれた金銅板の延宝8年(1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」とあり、江戸時代には「鳳凰堂」の呼称があったことがわかる。江戸時代の地誌『山州名跡志』(正徳元年・1711年)にも「鳳凰堂」とみえる。
 
宇治上神社 
 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される。なお、宇治上神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すという説もある。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。
 近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。
 
高山寺 http://www.kosanji.com/
 高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
 
苔寺 
 室町時代に、近くにある松尾大社の宮司藤原親秀(ちかひで)は、暦応2年(1339年)、当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して禅寺として再興した。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。 「西芳」は「祖師西来」「五葉聯芳」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来する。
 
天龍寺 http://www.tenryuji.com/
 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。
 
金閣寺 http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html 
 寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。
 平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。
 
銀閣寺 http://www.shokoku-ji.jp/g_about.html
 室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。山号は東山(とうざん)。
 
龍安寺 http://www.ryoanji.jp/smph/ 
 方丈庭園(史跡・特別名勝) - いわゆる「龍安寺の石庭」である。幅 25 メートル、奥行 10 メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。
 寺伝では、室町末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。
 
西本願寺 http://www.hongwanji.or.jp/
 西本願寺は通称であり、正式名称は「 龍谷山本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。
 真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した。
 
二条城 http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/nijojo/
 現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。
 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。

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